「大きな栗の、木の下で」

 小さな子どもたちの前で、彼女はそう歌っていた。

 どこからともなく現れた彼女は、
 元の世界に戻るために、彼女にとっては古典である彼の時代の書物を漁っていた。
 何か糸口があるのではないかと、毎日毎日漁っていた。
 それこそ朝から晩まで、
 日が昇り沈んで、夜が更けるまで。
 じきに彼女はうとうととし始めて
 消えた灯台のそばの畳の上に横になっているのだった。
 彼は時期を見計らい、彼女にあてがわれた室にそっと入ると、
 眠っている彼女の身体を優しく抱き起こして、
 侍女が敷いた布団の上に寝かせてやるのだった。

 「あなたとわたし、なかよく遊びましょう」

 彼女は、彼が自分を寝床まで運んでくれているのだと気付いていたはずだろう、
 賢明な彼女のことであるから。

 人間というものは、とても優れた生き物で、
 どんなにわけの分からない書物でも次第に読めるようになるものだ。
 だが、そのことは彼女の絶望の数を増やすだけだった。
 書物には、元の次元に戻る方法など書かれているはずもなかった。
 彼女の話を聞く限り、それは神という得体の知れないものが関与しているということだった。
 彼は密かに苦笑していた。
 神だと?
 もし神が彼女に語りかけ、彼女に神子としての役目を背負わせたのというのなら、
 それはひどく滑稽で残酷なことだと彼は思った。
 この細く折れてしまいそうな身体に、
 滅びかけている世を救うなどという
 使命など。

「大きな栗の、木の下で」

 彼女は謙虚だった。
 年に似合わないほどに控えめで、物事について達観していた。
 賢い女だと彼は思った。
 もしかしたら神が彼女を選んだのはそれ故なのかもしれないが。
 だが、謙虚さというものは時に妨げにもなる。
 彼は焦っていた。
 彼女は、その華奢な身体が表しているように、極端にものを食べなかった。
 まるで“この世界には私が口にしていいものなど何ひとつ無い”というかのように。
 彼女は、ここに来る手前の世界でもそう感じていたのだろう。
 だから余計に彼のいる世界で関係性を持つことを拒んでいたのだ。

 いつ帰れるか分からないというのに、彼女は本能まで犠牲にするというのだろうか。
 彼は焦っていた。
 袖口から見える彼女の細い手首を見ながら。

「お話しましょう、みんなで輪になって」

 頭を支えるには細すぎる首を見て、
 真っ白で貧弱な足首を見て、
 この世界には不似合いな
 短く癖の多い髪を見て、
 哀しいほどに澄んでいる
 こぼれ落ちそうな大きな目を見て、
 小さな口から紡がれる、その
 彼が聴いたこともない異風の歌を耳にして。

「大きな夢を、大きく育てましょう」

 彼は柱に寄りかかって遠くから見つめていた。
 子どもをあやす彼女の姿を。
 切なくなるような細く高い歌声を聴きながら、
 いつかどこかへ消えていきそうな容姿を、彼は密かに心配していたのかもしれない。
 彼は、ただ見つめていた。
 柔らかな陽射しの中で子どもに微笑みかける彼女のことを。
 ようやく書物を漁る時間も少なくなった。
 それでも彼女は、子どもたち以外に心からの微笑みを見せなかった。
 彼女と一番よく会っているであろう彼に対しても、だ。
 何を怯えているのだろうと彼は疑問に思っていたが、
 問わなかった。
 それは愚問だった。

「大きな栗の、木の下で」

 薄く浮かべられた彼女の微笑と、
 顔に影を作る長い睫毛を見つめて、
 いつか彼女が自分に微笑みかける日は来るのだろうかと、彼は考えていた。
 小さな口から紡がれる、その
 彼が聴いたこともない異風の歌を耳にして。

 いつか彼女が自分に微笑みかける日は来るのだろうかと、彼は、考えていた。